『丁場紀行』フィリピン丁場紀行 No.9-1

まず最初に2023年2月6日のトルコ/シリア地震にて亡くなった方々、被災された方々に対し、心よりお見舞い申し上げます。
トルコは丁場紀行No.5と6で案内したように、非常に馴染みが深く、出張時には大変お世話になった国のひとつです。震源地に近いカフラマンマラシュでの滞在はありませんが、被災報道されているマラティア市やディアルバキル市には数多く訪問し何回も宿泊しました。トルコ業者からの連絡ではマラティアで私が定宿にしていたホテルとその周辺は倒壊したそうです。
お世話になったホテルの方々、レストランの方々、丁場関係の方々も亡くなっていると思うと心が痛みます。

今回で『丁場紀行』9回目の発信です。前回は『中国丁場紀行 もっと過酷編』を案内しましたがいかがでしたか?
ご案内したお客様からは『よくもまあ、こんなスケジュールで体がもったな。』『矢橋の出張はエグイね。』『虫は美味しい?』『毎回、虫を食べてるの?』『本当に超ブラック出張ですね。』『相変わらず面白いね~~』などのお言葉を頂きました。
No.8を発信後、腑抜けに陥って、次回は何を書こうか考え始めたのが2月中旬で、テレビでは大規模な連続強盗事件や詐欺事件での『ルフィ』が収容されていた『フィリピン』が報道されていたので、『フィリピン丁場紀行』を書く事にしました。
皆さんは収容所での『ルフィ達』が賄賂次第で何でも可能だったのは不思議に思われるでしょうが、フィリピンに数多く訪問した私にとっては何の不思議でもない国です。入国時の通関で賄賂を要求されたことが何回もありました。
初訪問はいつだったか?今までに何回訪問したのか?と今までのパスポートを引っ張り出し調べてみたら、初訪問は1990年でその後、1996年に1回、1999年に1回、ピークは2000年から2002年にかけての3年間で16回、その後4回訪問していたので合計23回も訪問していました。トルコの19回訪問が最多と思い込んでいましたがフィリピンが最多であると分かりました。
よくもまあ23回も訪問したものです。

まず、フィリピンを理解して頂くための基礎知識です。【詳しくはネットでWikipediaをご覧ください。】
・正式国名 : フィリピン共和国(英語:Republic of the Philippines)
・面積 : 約781万km2〔日本の約2倍〕*ルソン島、ビサヤ諸島、ミンダナオ島などを中心に大小合わせて7,641の島々で構成される多島国家です。
・人口 : 約1億950万人〔世界13位、2020年フィリピン国勢調査〕*小島の人々まで入れると実際はもっと多いでしょう
・首都 : マニラ(ルソン島)〔大きな3都市:ケソン約2,960万人、マニラ約1,846万人、ダバオ約1,776万人〕
・民族 : マレー系が主体。ほかに中国系、スペイン系及び少数民族。
・言語 : 国語はフィリピン語、公用語はフィリピン語及び英語。180以上の言語がある。
・宗教 : ASEAN唯一のキリスト教国。国民の約83%がカトリック、その他のキリスト教が約10%。イスラム教は約5%
・通貨 : フィリピン・ペソ(PHP)
・歴史 : 『丁場紀行』フィリピン丁場紀行 No.9-1 フィリピンの歴史に触れましたが、フィリピンには悲惨な戦争の爪痕があります。そのほんの一部ですが紹介します。

①子供の頃の衝撃だったニュースは、何と言っても『小野田さんフィリピン・ルバング島から29年ぶりの帰国』です。
情報将校として太平洋戦争に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、第二次世界大戦終結から29年間もルバング島の山中で潜伏生活していた。1974年3月に帰国しましたが、取材で島民を30人以上殺害しその中には正当化出来ない殺人があったと思われる事を述べて批判されたり、任務に忠実だった等の称賛されたりし、マスコミに追いまわされたりし平穏な生活は送れなかったため、帰国半年後の1975年に実兄を頼ってブラジルに移住し91歳で亡くなりました。

②皆さん、フィリピン北部のルソン島西岸、マニラ湾入口のバターン半島先端に浮かぶオタマジャクシの形をした東西6km、面積5km2の小島『コレヒドール島(Coreegidor Island)』は御存知でしょうか?
コレヒドール島の概況は、1898年4月のアメリカ・スペイン戦争後、12月のパリ条約によって統治権がスペインからアメリカへ譲渡され、軍事施設が設けられました。第2次世界大戦中、日本軍の進攻に対してアメリカ軍とフィリピン軍の連合軍がこのコレヒドール島に立て籠もり、激しい抵抗を続けました。アメリカ極東陸軍司令官マッカーサーの脱出後、米比軍の総指揮官ジョナサン ウェーンライト中将以下1万人余りの米比軍が、1942年5月に日本軍によって占領されるまでの約1か月間、コレヒドール要塞を守った戦闘は名高く記憶されています。1945年3月、米軍奪還時には、島内で激しい戦闘が展開されました。特に日本軍は玉砕状態で、約6,000人の守備隊の内、生存者はわずか20名前後という悲惨な結果となりました。米・比連合軍も多数の死傷者を出しました。コレヒドール島はこの戦いにより解放され、1947年にフィリピンに返還されました。現在もこのコレヒドール島には太平洋戦争記念館、戦没者墓地などがあります。
なぜコレヒドール島の事を書いたかと言うと、私は2000年9月にコレヒドール島を見学し戦没者墓地を詣っています。
それは、私が若いころ可愛がった頂いた大阪の旭大理石工作所の先々代社長 桑原潔さん(全国石材工業会 第6代会長)から『三木君がしょっちゅうフィリピンに行っているならば是非連れて行って欲しい島がある。』と強く依頼され、2000年9月にテレサベージュ丁場訪問時に一緒に行ったのです。桑原さんの話では戦時中にコレヒドール島ではないが対岸のバターン半島で従軍されており、多くの戦友がコレヒドール島で戦死したそうで戦争中の色々な体験談を聞かせて頂きました。
その時に一番感動したのは、太平洋戦争記念館でアメリカ人の老人が我々に近寄ってきて、桑原さんに『貴方は戦争の生き残りですか?私も戦争の生き残りです。当時は敵対していましたがお互いに生き残って良かったですね。』と話してきて、2人で涙を流しながらハグしている光景でした。
『丁場紀行』フィリピン丁場紀行 No.9-1 前置きはこれ位にして本題に入ります。

当社がフィリピン産大理石を扱い始めたのは、1970年初めです。記録ではライトアラガオ(通称マリポサ)が最初で、その次にサザンクラウド(現在の通称はチェストナッツブラウン)、カピストラーノで、その後にテレサベージュファーンタンティーローズテレサロサータと続きます。当時ベージュ系の大理石といえば、イタリア産(メインはボティチーノクラシコ、キャンポペルラ系、トラヴェルチーノ系)ポルトガル産のリオーシュ系、フランス産等の欧州産が主流でした。当時、安価で品質の良いベージュ系を探している時に三菱商事から紹介されたのがフィリピン材でした。ということで我が国に最初に入荷したアジア圏の大理石はフィリピン材になります。
その後、1980~2000年中頃までは流通しましたが他国から良質で安定しているベージュ系大理石(スペイン産クレママルフィル、トルコ産タイガーベージュ他)が流通するようになって、世界的にフィリピン産大理石の需要は減少しています。

フィリピン産は地質学的にはビナンゴナン石灰岩でサンゴ礁の海の跡でハチの巣のような模様や花のような模様、年輪のような筋の入った模様、すなわちサンゴが群体となった造礁サンゴが母体となっています。形成年代は他の大理石、ライムストーンに比べるとずいぶん新しく、新生第三紀漸新世後半~中新世始め(約2800~2200万年前)です。
*参考にイタリアのボティチーノ系の形成は約1億9000万年~2億年前、ドイツのジュライエローマーブルは1億5000万年前)です。形成年代が新しい事とサンゴ礁の海の跡という事が関係するかどうか分かりませんが、どの石種でも丁場は大きくなく、石層も薄く採掘が進むと枯渇するピットが多いのが特徴です。

◆フィリピン産大理石の分布図
『丁場紀行』フィリピン丁場紀行 No.9-1

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